2012年1月15日 (日)

看板にいたわりあり

車で走っているとき、危ないけれど「おっ!」と感嘆させられる看板を見止めることがある。

それを写し取った今日の1・・・ある歯科医院の看板である。Photo_2

シンボルマークがシカ(鹿)になっている。私は、こういうアソビ心が大好きである。

私が通っている歯医者さんも、多分そのようなおココロで医院の名を決められたのではないかと思う。シカが付くもう一つの哺乳動物の名前になっているからである。

そこの先生、我らとほぼ同年代。マスクからはみ出る髪と髭はごま塩で、目はいつも笑っているように見える。たしかに、大の冗談好きである。

私「先生。夕べ歯が痛くて眠れませんでした」

先生「はいはい、お気の毒。自業自得です」

あるとき、私は診察台に張り付けられていた。先生が私の口を大きく広げるためにゴム製のドーナツを口唇と歯の間に強引にセットして来た。私の口は幸か不幸か、大きく丸く開いたままになった。多分、かの三波伸介の口の周りに丸く墨を塗った顔そっくりになっているはずである。三波伸介は舞台上の三枚目の役でいわゆる「アホな顔」をしたのであるが、私には役はない。

逆襲したくなった私は、「歯医者さんというのは不幸ですね」と回りにくい口で話しかけた。

「どうして?」と先生がのたまう。

「どうしてって、もし素晴らしい美人が来ても、このワッカを口に嵌めたらアホな顔になってしまう。その落差は幻滅そのもの。それは、歯医者さんの不幸というものでしょう」

先生は「フフン」と鼻で笑って麻酔もせず治療に入った。

筆者のツイッキー: 鮫は何度でも歯が生えかわるそうである。将来、遺伝子治療により人間でもそれが可能になったら、世の歯医者さんはいったいどうなるのだろう。我が敬愛する先生のために今から心配である。

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2012年1月 1日 (日)

初春のおよろこびを申し上げます。

今年がまっこと良い年でありますように。

私的年賀状を添えて今年の初ブログを発信します。

その年賀状については、毎年のことながら、その作成は苦しくもあり、楽しくもあり。

12月に入ってからようやく、「辰(龍)の年かあ。 イラストを何にすべー」と始まるのです。

イラストの案は、日光の鳴き龍、龍頭の滝、エルマーと龍(息子が幼年期に好きだった童話)、龍虎、天龍(相撲レスラー)、一龍齋貞鳳(古すぎてイラストにしにくい)、水田竜子(美人歌手すぎてイラストにしにくい)などなど・・・う~む

最初、直近話題になったブータン国王の「心の中の龍」に決めかけました。ブータンの国旗には確かに躍動する龍があしらわれています。これをハガキ一杯のの中に配置するというアイディアです。しかし、国旗をいじるのはやはり不遜不興不敬であると思い直し、別案を考えることにしました。

結局、下手の考え休むに似たり、12年前にも採用した坂本龍馬にしてしまいした。坂本龍馬は12年前は思いもしなかったNHKの大河ドラマにも最近登場したし、閉塞感のある今の時代にはいいのではないかと思います。彼の有名な全身写真をスケッチブックに筆ペンで手描きして、デジカメ、パソコンを介してハガキに印刷しました。毎度のことながら完成は年末ギリギリでした。Photo

さて、次年は巳です。苦労しないように今からイラストのネタを考えておくべきかもしれません(もういくつ寝るとお正月♪)

今回、辰巳琢郎のイラストにしておけば次年度版にも使えたかなあ。

あ、そう言えば!  この坂本龍のイラストは再来年(午、馬)にも使える

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2011年12月15日 (木)

孫、文

私の父は遠く沖縄で59歳で逝った。父にとっての初孫(私の娘)が1歳の時だった。父は生前、母に「孫ってのは本当にかわいいもんだね」と言っていたそうだ。ただ、遠く離れて住んでいたのでその孫を実際に抱いたのはほんの数回だったし、二人目の孫(私の息子)の顔は見られなかった。父の心残りを思う。

私は幸いにも父の年齢を超えた。そして数年を経て、孫も二人得ることができた。娘と息子に一人ずつで、文字通り天からの恵みである。現在、私は父と同じように「孫ってのは本当に可愛いもんだ」を実感している。かつての長い会社生活の途中や最後など、「我が人生に悔いなし」とはとても言えないが、今は、総じては幸運だったと思えるようになった。

さて、二人の孫は、この拙文の草稿をまとめた当時は、それぞれ11か月と7か月であった。その頃の話。

11か月の孫は何にでも掴まり立ちをする。その時に、おばあ様(誰?)がちょっかいを出すと、キャッキャッと大笑いして、その拍子に手が離れ、後ろ向きにひっくり返ってしまう。危なくってしょうがない。常に後ろに座布団を置いておくことが必要になる。

知恵もずいぶん付いて来て、おばあ様(我が娘の母)が、たまたま2家族で集まった際に7か月の孫の方を抱いていたりすると、急いで這い寄って来たり、ちょっとベソをかいたりする。

その7か月の孫は、ややおとなしめながら、何か言葉を発し続けている。こちらに一生懸命に話しかけているように見える。かわいいもんだ。11か月の孫とは将来、同級生ということになる。いいコンビである。我々の子供時代、従兄弟というのはものすごく貴重、有用であったが、少子化の今は尚更であろう。

なお、おばあ様(我が妻)の孫の溺愛ぶりはすごい。大殿様(誰?)としてはちょっとそこまでは躊躇があるほどである。

娘夫婦、息子夫婦とも東京に住んでいる。おばあ様は請われて時々両方へ(嬉々として)応援に行くが、千葉から東京、あるいは東京から千葉へは意外に意外に遠いので、私は12ケ月に1度くらいしか会えていない。それでも、11か月の孫はこちらを見つけると小さな手で指さして「おッ!」と言う。明らかに、「お母さんのお父さんだ」と言っている。かわいいもんだ。周りの人は「ほら、ジージが来たよ」と言うのだが・・・(私には、この言葉に未だ若干の抵抗がある)

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2011年12月 1日 (木)

小学生の頃から映画好きでした

今年3月の東日本大震災は、比較的離れた我が地域にも異常事態をもたらした。そのひとつとして最寄りの映画館が建物の点検補修のため2ケ月ほども休館するということがあった。そのことや自粛ムードもあって、私は暫らく好きな映画を絶っていたが、その反動か、その後かなり映画館通いをした。

今年見た映画を列挙してみる。

しあわせの雨傘(カトリーヌドヌーブ主演)、

ジュリエットからの手紙(フランコ・ネロが出ていた!)、

ハリーポッター、英国王のスピーチ、ライフ、

サンザシの樹の下で(「初恋の来た道」の姉妹編)、

僕らは世界を変えることができない、コクリコ坂から

はやぶさ(地球帰還に際してバラバラに燃え尽きる様が傷ましくも美しかった)、

阪急電車、ステキな金縛り、マネーボール、三銃士・・・

上記、コクリコ坂からステキな金縛りは喜び勇んで2度見ている。

「ステキな金縛り」は確かに面白かった。私の座席の数列後ろの女性は恥も外聞もなく大笑いしていたし(日本映画には珍しい光景だと思う)。

2度見ると、三谷幸喜監督が細かいところまで気を配っていることがわかる。

古色蒼然たるバスが走って来る。よく見るとナンバーが5963である。

そして、いろんな俳優がチョイ役で出ている(大泉洋などは、最後のクレジットロール(おまけ)の中で勝訴の札を持つ男として1回だけ静止画で出て来るだけである)。

無実の罪ながら被告人らしく本当にショボクレ顔の俳優が、実はあのKAN(「愛は勝つ」のシンガーソングライター)であった!

一番意外だったのは、造作も肌も美しい竹内結子の顔に大量のシナモンの粉が思いっきり吹き付けられるシーン。かわいそうで、可愛くて、面白かった(失礼)。

以下、ばらばら映画雑感

その1:映画は私のボケ防止のひとつである。「ステキな金縛り」においても、「絶叫する男」を演じた俳優が気になった。どの番組で見た顔だろう。必死に思い出そうとした。

何日かしてようやく「あっ!」と思い当たった。地下鉄の車両の件のように気になって眠れないほどではないけれど、頭の体操にはなっている(かな?)。

その2:BSでも時々いい映画をやっている。「天空の草原のナンサ」というモンゴル映画がよかったなー。でも、やはり自宅の居間より、劇場独特の真っ暗な空間の方が、映画という別世界にいざなってくれるようだ。

その3:今年いくつかCGの映画も見ているわけだが、正直あまりCGは好きではない。違和感があるというべきか。自動車が吹っ飛ばされて来るシーンなどで急に画面いっぱいになるなど不自然(あまりにマンガチック。異常なスピード感、遠近感)である。

一方、私が2度見た映画、「コクリコ坂から」と「ステキな金縛り」の共通点、よかった点は、CGにはない手作り感、適当なスピード感かもしれない。

Shane_2 Benikujak01

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2011年11月15日 (火)

棚田の火祭り

今はチョイ昔(先月末)、久しぶりの南房総ドライブに出た。我ら、信仰心の薄い二人ながら今まで折に触れて訪れている房総丘陵の三石観音に孫誕生のお礼参りをしようかと話し合っていたところ、たまたま、『昨夜、鴨川市郊外の大山千枚田棚田の火祭りが行われました。明日、明後日も行われます』というTVニュースを耳にして、「火祭りとは珍しい。その地まで足を(ワダチを)延ばしてみようか」ということになったのである。

かつて、この欄で紹介したこともあるが、大山千枚田はいわゆる東京から一番近い棚田としてこのところ少々名が知られて来たようである。

当日は駐車場からシャトルバスに乗り換えて現地到着。まず、棚田全体に刺されたたいまつに少々驚かされた。その数、3000本とのこと。すでに、夕暮れ迫る中、地元の青年団や、おばちゃん(おばあさん)、そして観光客の一部希2望者が広大複雑な段差の中をたいまつに点火して回っていた。

その光が日の入り(当日1648分)に向かって徐々に強さを増し、やがて暗闇の中に幻想的な灯りの点描画が浮かび上がった。複雑な形状の棚田に沿って、無数の灯りが風に揺れていた。最愛の人を無くした人には「♪千の風になって」が思い起こされるのではないだろうか。

1730分からは、棚田の最上部にしつらえられた舞台の上で「里舞い」が披露され、たきぎ能のごとき照明のなかに女の子たちの紅潮した顔や、あざやかな衣装が浮かび上がった。さらに、19時からは神楽が上演されるとのことだったが、真っ暗な棚田の最下部から吹き上がってくる風が震えるほどに冷たくて、残念ながら早目に帰りのシャトルバスに飛び乗った。1

でも、いいものを見せてもらったと思った。

若かりし頃、家族4人で房総半島を走り回る中で見つけた「をくずれ(地名)の水仙郷」、そしてこの「大山千枚田」も、地元の青年たちが村おこしの一環として祭りを起こし、盛り上げているようだ。筆者だけの秘密の花園桃源郷にしておきたかったという気持ちもないではないが、青年団の熱心さに免じて祭りとして受け止めよう。小さいことだが、祭りの露店でペットボトルの水が100円に設定してあったのも好感が持てた。

この祭りは、10月末と11月初めの週末に行われるようである。機会があれば訪れてあげてください。

付記:子育てを終えた夫婦二人だけのドライブは面白くも何ともないのではと言われるかもしれないが、謹んでお答えします。

熟年夫婦で、同じ景色を見ながら、あるいはレストランで食事しながら、「きれいだね」とか「美味しいね」とか、軽い会話を交わしながら過ごすのも、一人旅よりはずっといい、むしろ有り難いこととつくづく思うのでありますよ、この頃。

最近は携帯電話の保存写真を見ながら「かっわいいね」と交わすことも多くなった。のことである。

私の父のことを思えば、こういうひとときが自分に来るとは想像していなかった。

そこで一句(ドクタースランプより拝借)、「幸せだなあ、もう死んでもいい・・・でも死にたくない」 

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2011年11月 1日 (火)

味覚の不思議

今は昔、貧乏学生時代のこと。買って来た缶詰を一口食べた瞬間、はるか昔の思い出が強烈に蘇った。

我々の世代は、その幼少期がまさに戦後の食糧難時代の真っただ中に当たっていた。ただ、アメリカの支援物資であろう缶詰は意外に多かったようだ。缶詰類の中で、美味しいと思う物もあったが、妙に印象深いのは豆をトマトケチャップで煮込んだもの。生意気にも「日本人の口には合わないのでは」と幼な心に思ったものだ。

それから幾星霜、学生時代に再会したのは「ウインナソーセージ」であった。幼少期、名前も知らず、これだけはおいしいと思っていたその味だった。とにかく懐かしかった。そのとき味覚の記憶というものは意外に強いものなのだと実感した。

味覚と言えば・・・小生はリタイア後、嫁はんの命令で(?)、2年有余「男の料理教室」に通ったのだが、教室で習ったものを家で作って食卓に出すと、初回は確かに美味いと感じるし、嫁はんも褒めてくれたものだ。しかし、その次、2回目となると、お互いの目に少し「?」がつく。すでに少々「飽き」が出始めているのである。これは同意される方もおられると思うが、オイスターソースを使ったものに多いような気がする。同様なことは、インターネットで検索して作ってみたものにも当てはまることがある。Photo

我が家の先代シェフ(主婦)はあまり料理好きではなかったが、それでも子供たちに好評な「飽きない家庭の味」はあった。丁寧に丁寧に作ったコロッケなどである。やはり、ネットで目につく「超簡単レシピ」ではそうはならないのかもしれない。

そういった飽きの問題とか、あれやこれやで、現シェフとしてはプレッシャーが高まっている感じがする。かつて、先代シェフが「ねえ、今日、何を食べたい?」とよく質問していたが、その気持ちが今はよく分かる。

さてと、何はともあれ、今日の夕食は何にしようか。シェフはスーパーの四面素材の中で立ちすくむのである。そして、つぶやく。

「具や、具や、汝を如何せん」

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2011年10月15日 (土)

珠(ガラス)の腰

事件です。私こと、全く久しぶりにゴルフをやりました

4年と少し前、人生で一番ひどいギックリ腰に見舞われて、それからが大変、整形外科に行く→治療、リハビリ→ゴルフ練習再開→「そろそろラウンドできるかなあ」と思い始める→何かの拍子にギックリ腰→整形外科に行く・・・を繰り返して来ました。途中、下肢に現れた痺れに対して神経根ブロック注射まで打ったこともあります。

この頃は、だましだまし生活して行くよりしょうがないかと達観しつつあります。

ただ、このところ暖かい日が続いてリハビリ体操も順調で、練習も、アイアン、スプーン、ドライバーと、遅々ながらも順次進められて来たので、グリーンに出てみたいという気持が再び芽生えておりました。Photo

ちょうど、通っている練習場に水曜会というものがあり、毎週水曜午後に近場のカントリークラブで午後だけのハーフコンペをやっているということを耳にしたので、それに参加してみよう(まず、会より始めよ)と、最近一大決心をしたのです。そして、天気予報を睨み、当日暖かくなることを見越して、ギリギリ2日前に申し込んだのでした。

さて、コンペの日。絶好のゴルフ日和だったが、実は、心の中は不安で一杯だった。斜面ラフでのショットは腰に重大な負担がかかる、ティーペッグを刺す時やボールを拾いあげる時に不用意に屈むと危ない(過去にそれでギックリ腰になったことも実際にあり)と思い煩い、一方技術的には4年間もやっていないロングパットが心配だったのである。

その不安はみごとに的中。斜面で2,3打費やし、3パットを犯し、前半はメチャクチャだった。結局、スコアは45。スコアカードは大にぎわいで、なんと、バーディーもパーもボギーもダブルボギーもトリプルボギーも鎮座していた。

しかし、とにかく9ホールを無事乗り切ったのは大きな収穫。ほんとに良かった。リハビリの階段を一段登ったと思った。

でも・・・風呂で少々重い腰を温めているうちに、一打一打が思い返されて口惜しさみたいなものが込み上げて来た。

年内にもう1回くらい、暖かい日を選んで参加してみっぺか(千葉弁)。

謝辞: 今回は、幹事殿のご厚意で、同じパーティーに気心の知れた仲間2人が組み入れられていました。私は、いわゆる「パートナーに恵まれて」楽しい会話、もとい、楽しいラウンドが出来たのです。感謝いたします。

追記: その仲間2人は「パートナーに恵まれて」、私よりはるかにいいスコアを出して行きました。

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2011年10月 1日 (土)

もっと第九を

今年度も「国技館5000人の第九合唱」に参加することにした。早いものでもう4回目になる。Photo_2

先だって、本番(来年226日)まで約半年間に及ぶ練習の開始を告げる「発会式」が、この会の主催者たる墨田区役所のホールで行われた。私も(余談だが、今回は地域の友人約1名をこの趣味に引きずり込んで)、「さあ、今年もやるべか」と出かけた。

主催者や合唱練習指導者の挨拶のあと、音楽プロデューサー(先回の本番まで第九の交響楽演奏を担って来た新日本フィルの責任者の方)が登壇されたが、その話に少々驚いた。

今回は東日本大震災の復興支援という面もあるとのことだが、その大震災の当日は、新日本フィルにとってはジェットコースターに乗っているような日だったらしい。

当日の夜、新日本フィルは都下のさる大きなホールでコンサートを予定していた。そして、あの1446分、すさまじい揺れが来た!  指揮者ダニエル・ハーディング氏は、地震に慣れているはずの日本人メンバーが真っ青になっているのを見て、一段と激しい恐怖に襲われたそうだ。しかし、(余震も散発したが)コンサートはやるべしと決め、リハーサルは続けられた。

そして夕刻、交通のほとんどが止まっている中をやって来られたお客様約100人(たった100人、されど100人。局面を考えれば意外に多い、有難いお客様)に対して必死に演奏したそうである。

そのあと、指揮者はお客様一人一人と熱い握手を交わしたという。

しかし、その後が大変で、楽団員、お客様のほぼ全員が帰宅困難者という事態が待っていた。結局、その晩はホール側の好意もあって、全員そのホールで一夜を明かしたそうである。

なんという体験。約200名が音楽と不安を共有したのである。

一晩不思議な連帯感に包まれていたのではないかと思う。

この話は新聞に載ったのかどうか。私はその時まで知らずにいた。そして鳥肌が立った。

言い古された言葉を敢えて言う、「やっぱり、音楽って素晴らしい」

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2011年9月 9日 (金)

猛暑日に思う

15年くらい前のこと。我が嫁さんが、奥日光のあるリゾートホテルのお得なプランを探して来た。女性はグルメ情報のみならず、こういう旅情報にも強い! 一方、無骨な働き蜂にはリゾートホテルなどおよそ無縁、いわんや、普段は1泊数万円(a fewではない)と聞くと違う世界だと思うだけなのだが、今回は夫婦どちらかの誕生日の1週間前後であれば二人とも半額になるというおいしいものであった。

当時私は毎日がセブン-イレブン状態で、日曜日も半日出勤するような会社生活だったが、心優しい(?)嫁さんが「リフレッシュのためにも、あなたの誕生日に絡む土日に行ってみようよ」と背中を強く押して来た。

そうして辿り着いたホテルは流石の一言・・・湖に面した雑木林に囲まれた重厚な建物、中に入れば1階に素晴らしい暖炉が設えられていた。露天の温泉は白濁で、いかにも心身の疲れに効きそうであった。

その温泉で、我が嫁さんが東京から来たと言う中年の女性と話をしたそうな。何でも、「今日、東京は無風35℃以上のうだるような暑さとなった。あまりの暑さに耐えかねて、このホテルに電話してみたら、幸いなことにキャンセルで空きがあったので、家族4人で車を飛ばして来た」とのこと。Cd_kerry_marx_my_sunshine_lg_2

この話を聞いて、私は二つのことを思った。一つは、「35℃か。すごいなあ」ということ。当時はまだ猛暑日という言葉は無かった。気象庁が35℃以上の日を猛暑日と呼ぶようになったのは2007年らしいし、まだ珍しかったのだ。

(それが、地球温暖化の影響だろう、現在はそれほど珍しいことではなくなっている。このままでは近い将来、40℃以上の日を定義する必要が出て来るだろう。酷暑日か?

しかし、すでに酷暑と言う言葉は気象庁で猛暑と同じ意味で使っているらしいので、そうなると・・・

烈暑? 激暑? 厳暑? 甚暑? 超暑? 痛暑? 

気の重いことである。孫の時代が思いやられる)

さて、話戻って、もう一つは・・・正直に言おう、「世の中にはお金持ちがいっぱいいらっしゃるんだなあ」ということであった。彼らは我々が一大決心をしてやって来たホテルに軽~く来られたのである。我々の少なくとも4倍のお金を払って。

私は言わば、「感心」したのだが、それには多少の羨望も入っていた。

いかん、いかん、河島英五の歌(1986年)の一節にこういうのがあったじゃないか。

♪ねたまぬように あせらぬように

 似合わぬことは 無理をせず

 好きな誰かを 思いつづける

 時代遅れの 男になりたい♪

今でも、この歌は時々カラオケで歌う。自戒を込めて。

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2011年9月 1日 (木)

旅の途中

先回の小旅行中に撮った写真を2枚、恐縮ながら(遅ればせながら)貼付つかまつる。006_4

1枚目は、旅の途中、ある地方都市の駅前で見た看板(幟)である。

なんてったって、こういう愉快な宣伝を許してくれる会社の雰囲気を本当に羨ましいと思う。日本じゃ珍しい?

2枚目は、霧に煙る山の上の湖である。(左クリックで拡大します)

その日、午後から小雨模様となり、3時頃、我々が湖尻に辿り着く少し前から湖全体が霧に覆われ始めたらしかった。霧の中に大航海時代の海賊船を模した遊覧船がそびえる様は幻想的でいいなと思ったけれど、その夜の宿は対岸にあったので「欠航になっては少し面倒だな」とも思った。しかし、幸いにも、意外にも、遊覧船は写真中央の奥へ、霧の雲の中へそろりと出航した。007_3

実は、古色蒼然たるその姿に似ず、しっかりレーダーが付いていたのである。

その後、山道を歩きながらこう考えた。

     意外な組み合わせは「法隆寺に太陽光パネル」の如し。

     無用に見えて緊急時に力を発揮するとは、「無用の用」か。

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2011年8月12日 (金)

人生は小さな矛盾・皮肉に満つ

7月末、今や亜熱帯気候に属する関東平野の一角から逃れるために、あるハイランドに行って来ました。しかし、連日雨模様で、その間は平地・下界(?)も涼しかったようです。

それに、私自身は湯治(腰痛、○痛)を兼ねるつもりでしたが、ちょっと風邪気味で温泉のハシゴは自粛せざるを得なかったし、大体、たったの2泊なので「2階から目薬」に近いものでした。これらのことは、「人生は小さな矛盾・皮肉に満つ」ということでしょうかね。

でも、少々の矛盾・皮肉は他人にとっては微笑・苦笑を誘うものだと思います。201108051425000_2

添付写真は、その一例「医者の不養生」を示す張り紙を昔見つけて撮ったものです。

同様のことを現代風に表現するとすれば、「経営学者の破産」、「リーダーの方向音痴(誰とは言いません)」、「万能パソコンの誤変換」といった所になるでしょうか。

変換と言えば、数年前、ネットでパソコンの珍変換の傑作選をやっていたのを思い出しました。中で異常に面白いと思ったもの(投稿者不知)をひとつ紹介して今日は終わります。礼。

(入力)カイガイニスンデイマス

  (正変換)海外に住んでいます

  (珍変換)貝が胃に住んでいます

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2011年7月23日 (土)

若き日を ふと懐かしむ 節目かな

いまから40数年前、我々の高校生活はいわゆる受験地獄の真っ只中にあったが、そこはそれ、若さゆえの楽しいことも転がっていた。

受験校でも体育の授業はあった。あまり面白くないものであったが、あるとき、その体育の先生が突然救世主となる。「お前たちは学校でも家でも受験勉強が続く。たまには息抜きも必要だろう。今後、体育の時間は男子はソフトボールとする。自由に楽しめ」。

男生徒は大喜び。さっそく、適当に4チームに分かれ、長期リーグ戦が始まった。

しかし、たまたま私が所属するチームは連戦連敗だった。そんなところに、怪我か何かで学校を休んでいた一人の男生徒がクラスに戻って来た。私は彼に頼んでみた。「我がソフトボールチームは弱小である。助っ人になってくれないだろうか」。

普通なら、(プロ野球もそうだが)、「強いチームに入った方が楽しい」と考えるところだろう。打席もどんどん回って来るし。

でも、彼は我がチームに入ってくれた。そして、それ以降は、他チームとなんとか互角の試合が出来るようになったのである。体育の時間が楽しみになると同時に、「あいつ、いい奴だな」と思った。

あれから40数年。住む所がお互い首都圏に移り、少し遠いが、彼は今でも私の重要な

友人の一人である。

その他にも忘れがたき同級生が多い中、避けては通れないお方(?)がいる。

受験強化クラスに7人の女性徒がいた。クラスの男生徒はあまねく彼女らを尊敬し、密かに7人の侍と言っていた。その中に一人何か静かな雰囲気を持った小柄な女性徒がいた。一番の美人ではない(失礼!)が、その清楚さを好もしいと思ったのを覚えている。

しかし、彼女と話をすることは結局なかった。当時の鹿児島という地にはそういう雰囲気は全く希薄であった。男女7歳にして席を同じうせずである。ところが、かなりあとでわかったことだが、全校では10指に余るカップルが、その時節でも密かに愛をハグクんでいたらしい。

「恋愛は秘め事」・・・乗り遅れた私でもそう思う。古いやつだとお思いでしょうが、それは今でも変わらない。近頃の軽い恋愛の風潮を少々苦々しく感じている。

さて、彼女とは5,6年後に東京であった同窓会で再会する。

そして、少し時をおいて結婚する(してあげる? していただく?)ことになったのだが、結婚して初めて、あの時清楚と見えたのは実はかなりのノンビリ屋さんだったのだとわかった。でも、それはそれでよかったのだと今は思う。

「喜びも悲しみも幾年月」

「喜びも顔のしみも幾年月」

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2011年6月30日 (木)

少し前、ちょっぴり嬉しいことがあった。

暗い話題が続いた。ちょっぴり幸せな話題に戻ろう。

10年少し前に流行った歌に「♪何でもないようなことが幸せだったと思う」という一節があった。地震、津波というとんでもない災いが起こってしまった今、何でもないようなことが織り成す日常はこれ以上ない幸せなのだと改めて思う。

震災前のある日、デパート上層階のレストラン街の中のうなぎ屋に入った。名前のよく知られた老舗○○○の支店で、綺麗な店だった。比較的すいている時間帯で穏やかな空気が流れていた。

ごく淡いピンク色の上品な和服をまとった女将さん然とした人が注文を聞きに来た。

私はうな重を頼んだ。その女の人がやさしく言った。「肝吸いは別(料金)なのです。おぶでいいですか?」

私はおぶという関東ではめったに聞かない柔らかな言葉に何か懐かしい京都の風を感じた。京都は学生時代から始まって数回訪れたことがあるだけだが、京都の町も仏像も中年の女性も京都弁も大好きである。

思わず鸚鵡返しに答えた。「あ、おぶでいいです」

そしてふっと言葉を継いだ(継いでしまった)。「それにしても○○○さんて本店は京都でしたかね?」

女の人はハッとしたようで、そして少々はにかんだような笑みを浮かべて言った。「あ、そうじゃありません。私がたまたま京都出身なんです」

その人が静かに退いたあと、しばらくして若い人が運んで来たお盆にはうな重に肝吸いが付いていた。

「あれ、あの人、間違ったのかな。ま、いいや。払って帰ろ」

美味しいうなぎだった。

会計の時になって伝票上に肝吸いが計上されていないことに気がついた。

私はお金を払いながら、店内にあの人の影を探した。声の届きそうな所にいた彼女は微笑んでいるように見えた。Photo_2

しかし、周囲には他の店員もいる。その女の人に言葉でお礼を言うのも(ましてや、間違いではと荒立てるのも)野暮というものであろう。私はその人に軽く会釈をして、暖かった店を出た。

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2011年6月 9日 (木)

死後の世界について考えるのココロ

今は昔、ひょんなことから若い坊さんと死後の世界について議論をしたことがある(なぜか小料理屋のカウンターで)。

話の半ば、ほろ酔いの彼がおごそかに言う。「死は不幸ではない。死後すぐに来世があり、そこでかつて死別した人々に再会できるという喜びも待っている」

私が反論する(まるっきり揚げ足取りであるが)。「では、例えば30代で急死してそのままの姿の夫に、あとから来た80歳の妻が会うのか? そりゃあつまんない。ロマンチックじゃない。平均寿命から言っても、男が損である!?」

私の話が少し飛躍する。「だから、多分、人はそれぞれに自分が一番幸せだった頃の世界に行くのではないか」

(追記:今回の大震災で亡くなられた方々が、その瞬間の姿でいるとすれば、あまりに気の毒である。是非、その人の一番幸せであった頃に戻っていて欲しいと思う)

その時、若い坊さんは「なるほど」と応じてくれたのだが、私の方が悩み始めた。「各人がそれぞれ一番幸せだった世界を持つということになると、今までの人類の数の膨大さを考えれば、それは物理上、空間上、不可能である。  やはり、言い古された通り、各故人は残された人々の思い出の中、記憶の中(だけ)にいるということになるのかもしれない。もう少し空想科学劇場的に発展させれば、脳の中、脳の記憶容量(無限大)の中に異次元の世界があるのかも」

そう言えば、何の童話だったか、「死後の人々は真っ暗な世界に全く意思なく静止した状態でいる。しかし、現世の誰かがその人を思い出してくれたら、その周囲に光が差し、身も心も動き出す。ああ、思い出してくれたかと幸せな一時を過ごすのだ」というくだり(悲しいような暖かいような)があった。私は坊さんとの対話の終わり頃、この話を思い出していた。

しかしである。 つい最近、あのホーキング博士がこう断言されたそうである。

「死後の世界というものは無い」・・・・・・

そうだよな~    

今回の小ブログはここで頓挫(頓死)する。

追伸:

さて、しかし、話のついでに、私がこれまでで一番幸せだったのはいったいいつ頃だったのだろうと考えてみる。

「若い肉体」というのもひとつの大きな「幸せ」ではあるけれど、「心」を考えると、意外に・・・・「現在」かもしれない。

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2011年5月19日 (木)

東日本大震災(続)

東日本大震災から2ヶ月が過ぎた。

片づけ、復旧は少しずつ進みつつあるようだが、いまだ一面焼け野原のごとき光景の残る地域がテレビで紹介されることがある。気の毒過ぎて胸が痛くなる。

現在、当地を含め、余震はかなり減って来ているように思う。しかし、まだまだ油断はできない。あのスマトラ沖地震で本震の3ヵ月後に最大余震(マグネチュード8.7)が来たという事実もある。

それもあって、夜、布団に入るときにふと不安がよぎることがある。「私に明日という日はあるのだろうか。大きな余震(あるいは房総沖地震)で我が家が倒壊し、その下敷きになる可能性もないではない。また、生きてはいても、自宅を含めた多くの建屋が倒壊し、生活基盤が全滅した怖ろしい光景を目の当たりにして茫然と立ちつくす私がいるかもしれない」。黒雲のごとき漠然とした不安である。

全くの杞憂とは言い切れない。房総沖地震域は今回は幸いにも連動しなかったが、いつ起きても不思議はないと言われているのだから。

もし房総沖地震が現実となったら、現在の東北地方の辛酸を深く重く体験することになる。どんなに苦しいことだろう。

裏返せば、被災地の今の苦しさを自らの痛みとすべく、ボランティアに出るべきなのだろう。しかし、腰痛持ちのオジン(?)としては躊躇せざるを得ない。せめてもと自治会、公共機関などへ義援金を送ったが、東北地方の産物の購入など間接的な面でも支援したいと思っている。

新しい動きとしてdocomoのポイントを義援金として送ることができることがわかった。仲間にも伝えたい。

もうひとつ、直近、私が通う音楽教室の先生が催した震災チャリティーコンサートに参加(有料入場)して間接的な義援金としていただいた。

まだ何か出来るかもしれない。

それにしても、震災後何かが頭の上にかぶさっている。私ブログも筆が進まない。冗句も出ない。ちなみに我が友人たちのブログにも震災後更新されていないものもある。判るような気もする。でも、自らにはこう言おう。過度の自粛は人のためならずと。

その意味で、このところ私が敢えて選曲している歌がある。私は演歌派ではないのだが、あまりにも地名が符合するので心を込めて歌う。それは、港町ブルース(補詩なかにし礼)である。

♪呼んで届かぬ人の名を

 こぼれた酒と 指で書く

 海に涙の ああ愚痴ばかり

 港・・・宮古 釜石 気仙沼 ♪

東北がんばれ。

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2011年4月26日 (火)

東日本大震災について(続篇)

あの311日、我々の地域は震度5であったらしい。周囲の誰もが、今までの人生において最大の(過去の震度5強よりも大きい、しかも、異質な、ゆっくりとした、それだけに恐ろしい)揺れだったと言っている。

ただ、被災地では最大震度7に見舞われたと聞く。その恐怖は想像を絶するものであったろう。

さて、私の場合、大いに揺れた駅前のビルから外へ出て、少し一心地ついた頃、ようやく我が嫁さんと連絡がついた。そこから歩いて10分くらいの、嫁さんが勤める個人事務所に行くことにした。こういう非常時には夫婦一緒にいた方がいいと思ったからである。

嫁さんのいる5階建てのビルは最上階の部屋でワインや多くの物が落下してシッチャカメッチャカになるほどひどく揺れたとのことで、2階の部屋に一人いた彼女はさすがに飛び出したらしい。しかし、今は意外に落ち着いていた(!)。私も腰を据えて彼女の仕事が終わる5時過ぎまで待つことにした。どうせ1446分の地震の後、JRも停まっているようだし、そして、ちょうど5時くらいには必要十分な線路点検を終えて動き始めているだろうという考えもあったのである。

1階の喫茶店で一人待っている間に(余震もけっこうあったけど)、突然大きな空震があり、ドアがガタガタ揺れた。女主人が表に出て情報(うわさ)を仕入れて来た。近くの製鉄所で火災が発生し、大きな爆発があったらしいとのこと。しかし、あとからわかったことだが、実際にはより遠くの製油所での爆発だった。「うわさ」というものはより自分たちに危険な内容に片寄るのであろう。

5時半過ぎ、二人で駅前に行ってみると、JRは「今日は動きません」と言っているし(冷たい!)、広場はバスやタクシーを待つ人人人で埋まっていた。私は「考えが甘かった」とホゾを噛んだ。

とは言っても、我が家まで歩いて帰るとすれば、だらだら登りの1516km。嫁さんにはきつい行程である。とりあえず列の後方に尾いてバスを待つことにした。

冷たい風が宙ぶらりんで不安な心と細身に凍みた。交代でJRのトイレを借りに行ったり、背中を合わせて寒さを防いだりした。二人でいるということはそういう意味でもよかったのかも。

結局、バスに乗れたのは1時間半後。そして、バス内は大混雑、街道は大渋滞というしんどい旅を2時間半(本来ならJR15分なのに)、疲れ果てて我が家にたどり着いた。しかし、実はその日のうちに自宅に戻れたのは幸運だったのだと後から知った。あのとき地震を同時に体験した音楽教室の友人は結局交通手段が途切れて切羽詰まり、最終的には近くの市民会館に誘導されて、そこで一夜を明かしたそうである。

当夜、多くの人が帰宅難民、帰宅困難者、帰宅難渋者となった(一説には300万人とも)。私も言葉は聞いていたのだが、現実にそんな日がこんなにも早く来るとは思っていなかった。今、あらためて我が家の地震対策、対応策を練り直し、そして、なるべく早い機会に最短(?)の帰宅行程を歩いてみようと思っている。Kappa_2

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2011年4月 4日 (月)

東日本大震災

日本は今、未曾有の困難の真っ只中にある。この東日本大震災で亡くなられた方々は2万人を越すと言われる。老若男女それぞれの苦しさ、無念さを思う。

同時に、現在被災地で辛酸を舐めておられる皆さんに心からお見舞いを申し上げたい。

さらに加えての原子力発電所の事故である。原発の周囲、中心にいる人たちのことを思うと本当に心が痛む。そして、私事ながら、震災の翌日に生まれた息子夫婦の長子がそのまま原発に比較的近いお嫁さんの実家にいるので、乳児と放射能といった面でも心が休まらない日が続いている。其処のミネラルウォーターの品切れなどもまっこと心配である。

さて、小生、今まで拙ブログをほぼ2週間に1篇上梓して来たが、このところ全くその気が起こらなかった。フザけた雑文や旅行日記、さらには恥も多き我が一代(未満)記など、無益なもの、節電にも反するものと思えたのである。

しかし、先篇から1ヶ月を経て、今回敢えて我が地震体験記を記す。

もちろん、東北のみなさんの恐怖の体験に比べればいかにも小さいと大いに恥じながらではあるが。

当日は千葉駅前の比較的古いビルの8階にいた。大きい横揺れが来た。もう収まるだろうと思っているうち、突然その振れ幅が猛烈に大きくなった。右に左に大きく揺れた。右なら右に揺れた時そのまま倒壊する(圧死する)のではという恐怖が徐々に大きくなって行った。もちろん立ってなどいられない。多数の女性の悲鳴が断続的に聞こえた。我がいとしき(?)女房殿の顔が浮かんだ。膝をつきながらも咄嗟に携帯電話を取り出し、女房殿に繋ごうとした。地震が収まってからでは多分繋がらないだろうと思ったのである。しかし、結局だめだった。

長い長い揺れがようやく収まった。すべての人が階段で退去を始めた。1階に着いた時に大きな余震が来た。急いで外に出ようとしたが、ガードマンに止められた。今飛び出せば、上から割れたガラスが大量に降ってくる恐れがあると言われた。なるほど、今まで防災知識としては、ビルの下の歩道を歩いている時に地震が来たら落下して来るガラスを避けるためにすぐビルから離れることとは教えられていたが、その裏返しもまた真なのである。

ようやくビルの外に出た時、大通りには近くの建物から飛び出した人たちで溢れていた。あたりを見回したが、幸いにも倒壊した建物は無いように見えた。震源はどこだったのだろう。大きな被害が起こっていなければいいがと思った。

しかし、そんな思いを吹き飛ばすような大津波が、その時、かの地に迫っていたのだ・・・・・

「明日はわが身」かもしれない。自分が生きている間にすさまじい災害をこれほど何度も見るとは思わなかった。阪神淡路、スマトラ沖、四川などなど、挙げれば両手でも足りない。

地球が壊れて行っているような気さえする。

そして、そのあと我々は文字通りの帰宅難民となってしまったのだが、それについては次の機会に記すこととしたい。

追伸;千葉県でも旭市の津波の被害(死者も)や浦安市の液状化の被害が出ている。浦安市の場合、友人知人もおり、3週間たった現在でも下水不通に苦しんでいる地域もあるとのこと。これらを含め、連日の報道にキリキリと胃が痛む毎日である。早期の復旧、復興を祈る。

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2011年3月 3日 (木)

我、佐藤しのぶと共演す?

2月27日の日曜日、第27回国技館5000人の第九合唱に参加して来ました。

これまで26回すべてに参加して来たという猛者もおられたようだが、私はリタイア後に入信してこれが3回目である。001

広い国技館の半分(向こう正面側)に5000人の合唱団が座るという設営において、第4楽章での合唱が始まる直前に合唱団席にライトが照射され、一斉に立ち上がった5000人が浮かび上がるという演出がなされる。黒の礼服姿の男性陣を中心にして、左右に白いブラウスの女性陣が大きな白鳥の羽のように広がる(らしい)。観客席(正面側)から見れば壮観かもしれない。当事者たる我々には見られないけれど。

そして、国技館中央の土俵・・・もとい、舞台にはそうそうたるソリストが並ぶ。今回は佐藤しのぶ(ソプラノ)、坂本朱(メゾソプラノ)、錦織健(テノール)、福島明也(バリトン)の各氏で、これだけでもS6,000円はお得ではないかな(アマチュア5000人はオマケ)。強力なソリスト4人に対してアマチュアの合唱団は数で対抗しているわけだが、それだけ指揮者は大変だろうなと他人事ながら(?)心配になる。その事への対応策として強制されているのが暗譜5000人全員が、楽譜を見ずに(持たずに)中央の指揮者を凝視するのである。

その指揮者は、今年はエネルギッシュな女流指揮者だった。つられて我らも元気いっぱいに発声した。ただし、事前にギネスものと聞かされ、ある程度は覚悟していたはずのその速いテンポにリハーサルではアタフタする場面もあり。

第九の演奏は普通1時間10分くらいかかる(実は、CDのそもそもの容量・規格は、この世紀の名曲が1枚で収まるように決められたという逸話がある)のだが、今回の本番は1時間ちょっとで駆け抜けた。それはそれで特色であろう。そして、歌い終わったときの達成感、身体の中の悪いものが全部出ていったような爽快感には大きなものがあった。ただ、個人的には、何か細かいところでは完璧でなかったという感じが残った。また来年挑戦しようと思う。

トピックス:この5000人の第九は墨田区役所のプロデュースである。墨田区だけに、幕開けに東京スカイツリーを祝う歌が演奏され、また、全体の司会進行役に墨田区向島の料亭の女将さんが指名されていた。舞台の上の艶やかな着物姿、女将としての度胸はさすが!

合唱団5000人の中で2割強しか占めない男性陣は完全に負けているスミダ。

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2011年2月16日 (水)

ふるさとの食は遠きにありて思うものⅡ

「ふるさとの食」の話を機に、遥か昔の「食の思い出」について少し語り出してみたい。

私が小学生の頃、我ら家族は沖縄にいた。ある日、長子としての私は、父が始めていた小さな会社が倒産し、同時に療養中の母が大病院で手術すべしと診断されたことを知らされた。

すぐ一家離散という事態が来た・・・父のみ沖縄に残り、(幸いにも友人に恵まれて)再起を図ることとし、母は海路遥か、鹿児島大学病院に入院。我ら子供4人もそれぞれ鹿児島市在住の親戚の家々に預けられることになったのである。妹、弟の面倒をみなくてはと子供心に緊張したのを覚えている。

父はその後永らく単身で頑張ることになる。借金を返しつつ我々に仕送りするという苦しさは尋常ではなかったに違いない。もともと我々にとって文字通りの慈父であった。文化施設の館長も務めた根っからの学者タイプではあったが、時々ひょいと面白いことを言っては笑わせてくれたものである。遠い父が懐かしかった。

そんな父が時おり入院加療中の母を見舞いに上鹿して来た。父は子供たちを集めた。食事に行くのである。子供にとっては眩いばかりの食堂であった。いや、実際坪庭のある綺麗な店だったように記憶している。名は「○○き○」といった。父は天丼を頼んでくれた。当時たぶん天重というものはなく、天丼は子供にとっては最高級品、最高の美味(年に1~2度の贅沢)であった。

それからいろいろなことがあった。そして、父は59歳で逝った。私は数年前に父の年齢を追い越したわけだが、過日全く久しぶりに鹿児島を訪れた際に、「○○き○」に行ってみた。

イメージが違った。改装したのだろう。あるいは、脳裏にある美しい姿は、みんなが貧しかった時代、妙に老成した一人の子供が抱いた幻だったのかもしれない。

ともあれ、食の思い出としての天丼は父にまっすぐ繋がっている。今でも天丼を食べると父を思い出すのである。

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2011年2月 2日 (水)

ふるさとの食は遠きにありて思うもの

これも私が東京に来たての頃の話である。

18歳の私にとって初めての一人暮らし。必然的に栄養のバランスを自ら考えなくてはならない日々であった。

ある日、近くの大衆食堂(当時こういう名称の店は多かった)に入ってとんかつ定食を頼んだ。一汁一菜一香のお膳が来た。皿にはお目当てのひとつである山盛りのキャベツがあり、しかし、その横に見慣れぬ小さな黄色の練り物(?)があった。「味付け味噌かな?」と思いつつ、箸でひとつまみ(多すぎた!)口に入れてみた。

目と鼻から火が出た。味噌ではなく、カラシだったのである。

飛び上がりたかった、もしくは転げ回りたかったが、周囲にさとられないようじっと耐えた。涙が出た。

ちなみに我が故郷では(もっと大きく言えば関西圏では)、「とんかつにカラシ」はあまりお馴染みではないと思う。

少なくとも辛党ではない我が家ではお目にかからない取り合わせであった。

この事件のあと、しばらくとんかつは食べられず、親子丼(お金の無いときは玉子丼)を偏愛することになった。

なお、東西の食文化の違いという点では、当時私は納豆にも苦労した。

実は、今でも食べられない・・・・・・甘納豆なら大丈夫なのだが。

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2011年1月19日 (水)

時差と玉子焼き

今は昔、40年(+α)前のこと。

18歳の私は春に鹿児島から上京して来ていた。秋が過ぎ、冬を迎えた頃、周囲の雰囲気に妙な違和感があった。しばらくして、それが夕方5時前で早やあたりが夜になっていることだと思い当たった。

鹿児島県なら冬場でも5時ではまだまだ明るい日差しがあった。18年間、それが当然だと思っていた。故郷を離れて、日本列島に実際上の時差が存在することを体感したのである。

今思えば、当時、鹿児島-東京間は「急行霧島」で26時間を要していた。時差もまたむべなるかな。

時差だけではなく、料理の味の違いにも多少の驚きがあった。

我ら世代はほとんど例外なく玉子焼きが大好きであるが、東京の玉子焼きは味がまるで違っていた。めちゃくちゃ甘いのである。故郷では(少なくともオフクロの味は)塩味だったから、砂糖味のそれは「おかず」とはとうてい思えなかった。

塩味の玉子焼きが食べたいという深層心理(?)を抱えたまま数年が過ぎた。就職した会社の独身寮の賄いがまずい時などに、地場の夫婦2人でやっている小料理屋にちょくちょく通うようになった。

ある時、ダンナに頼んでみた。「特別料理、頼んでいい? 塩味の玉子焼き」。

ダンナは他の客の料理を忙しくこなしながら、「おう」と気軽に返事をした。ちょっと意外な感じもしたのだが、久しぶりに塩味の玉子焼きが食えるかなと心の中でほくそえむ。

しかし、しばらくしてテーブルに出て来たのは・・・「アジの塩焼き」だった。

うーん、ダンナの拠って立つ地所(辞書)には、「シオアジのタマゴヤキ」は存在せず、その音色によく似た単語がインプットされたらしい。

私は紅涙を絞って玉子焼きに掛け、おもむろに食した(これはウソ)。

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2011年1月 4日 (火)

年賀状恋唄

あけましておめでとうございます。

しっかし、月日の立つのはなんと早いことでっしょう。

去年という1年も、1月末「あ、もう1年の1/12が過ぎた」、2月末「1/6が過ぎた」、3月「1/4が過ぎた」、4月「1/3が過ぎた」、6月「半分が過ぎた」、8月「2/3が過ぎた」、9月「3/4が過ぎた」・・・と言っている間に、12ヶ月が過ぎ去ってしまったのである。今年は1月が過ぎた時点で「早や1/12が過ぎた」とは思わないようにしようと思う。

さて、年賀状の話を少し。毎回年賀状のイラストには苦労しているが、昨年も「来年のウサギ年」をどう描くべきかと早くから考えてはいて、結局ぎりぎりで右図のように決めたのであった。0

イラストの構図として、右側に鳥獣戯画の「うさぎ武士」、左側に正装したピーターラビットを配した。かつては120枚くらいの葉書にすべて手描きで鳥獣戯画の兎とか猿とか(前回の竜の年にはなんと坂本龍馬、とか)を毛筆で描いていたのだが、昨今はさすがにしんどいので、スケッチブックにまず手描きして、水彩色鉛筆で着色、これをデジカメ、パソコン経由でプリンターにて葉書印刷するという手法を使っている。オール手描きは11枚微妙に違って来て、それなりに味があるような気もするが、この素人が模写し印刷した葉書にはせめて「初春のおよろこびを申し上げます」と毛筆手書きで加えるようにしている(ただし、これもまたしんどい仕事なので嫁さんに依頼。私はエライのである)。

話は少し戻って図柄の件。たまたま日本の古典「鳥獣戯画」と名著「ピーターラビットのおはなし」にそれぞれ右手を差し出したようなポーズを見つけ、著作権法違反を承知でドッキングした。私としては、両者がまさに握手せんとする絵にしようと思ったのである。ものすごーくオーバーに言えば「東西の融和」を祈念して・・・・ナンチャッテ。

それでは、本年もよろしくお願いします。

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2010年12月21日 (火)

またまた孫の話でスミマセン

赤ん坊(我が初孫殿)は元気だ。泣き声も男の子らしく力強くなって来た(母親は大変だけど)

目覚めている時、さまざまな手足の動きを見せてくれる。それは「機械的」とはまるで無縁で、見ていて本当に飽きない。

時々かわいいしゃっくりをする。

不思議なのは、熟睡中に突然何かにびっくり(小さい身体全体で反応)して、泣き出すことがあること。昔、我々自身が子育てをしていた時代には、「まだ猿と人間に枝分かれしていなかった遥か昔の祖先が、生命線である木の上から、天敵が徘徊する地上に落ちた! あるいは落ちかかった!という恐怖をたびたび味わったことがDNAに刻み込まれていて、赤ん坊はその夢を見てびっくりするのである」と言われていたような気がする。今はモロー反射とか言うらしい。

なお、我々が爬虫類を見たときに何となくぞっとするのは(例外的な人もいるけれど)、やはり遠い祖先が巨大な爬虫類に悩まされた記憶によるものだという説はまだ生きているようではある。

話しついでに、比較的新しい学説というか雑学というか、ひとつ書き留める。

ご存知のようにガラスの表面を釘か何かで引っかいた時に実に不快なキーまたはギーという音が発せられるが、あれは何故不快に感じられるのであろうか(これにも例外的な人がいる?・・・まさか)。これまた遠い祖先が森で集団生活をしていた頃、天敵の肉食獣が近づいて来た場合に、見張り役が群れ全体に警戒音、警告音を発した、その音にごく近いらしい(テレビ映像などで、現代の猿もそういった場合にキーとかギーという音を発しているのを見たことがある)。

本質が警戒、警告音なので、子孫たる人間族にとっても実に不快に感じるということのようだ。

孫殿へ。

そういうことならば、我が家のドアのきしみ音(ギー・・・)を解消すべく、ちょうつがいにチョイと油を差しておこうか・・・・・・このオジイの関節にも。

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2010年12月 7日 (火)

初孫が来た!

先回ちょろっと紹介した初孫が今我が家に来ている。

母方の実家としての権利(?)として産後の母子を3週間くらい預かる予定なのである。

そして、今まさにこの瞬間には母子一緒に眠っている。

初孫は3000g以上で生まれたけれど、意外にちっちゃくてかっわいいというのが実感。自分の子供たちはどうだったかなと遥か遠い記憶をたどってみるがおぼろである。

それにしても生後2週間。起きているときは、機嫌がいいときも悪いときも、マットの上で、パタパタとあるいはヒョイヨイとかわいい手足で空を掻いている。一言で言えば「見飽きない」

あまり夜泣きもしない。娘は産科の看護婦さんから「この子は理由のあるときしか泣かない。その理由が解消するとすぐ泣きやむ」と褒められたそうで、私も「ムヒヒ、賢い子だ」と思ってしまう。

アレ? これって孫自慢かね?

私の嫁さんは「はいはい、千葉のおばあちゃんですよ」と孫にあいそを振りまいているが、私はまだ「千葉のおじいちゃんですよ」とは話しかけられないでいる。先回述べた「お母さんのお父さん」も、「大殿様」も実際上は不可能である。

「翁」にすっぺかな。

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2010年11月23日 (火)

つれづれ日記風

某月某日

ふと気がついた。重い腰痛でゴルフのラウンドを断念してからとうとう丸4年がたってしまっていたことに。発症の半年後に神経根ブロック注射を受けたおかげで痺れを伴う痛みは無くなったが、おそるおそる練習は再開しても、その後も時々突発的な痛みが起こるたびに練習を中断するという状況で今日に至ったのである。以前、瞬間的にはハンデ9を張ったものの、腰痛後はジリジリと落ち、ついにはゴルフ会員も休会としたためハンデも没収(リセット)となってしまっている。

しかし、今年の猛暑は腰には随分よかったようだ。諺にあるように、風はすべての人に悪くは吹かないのかも。

個人的にはフォームも随分変えた。スタンスを狭くし、インパクト後も絶対に逆C型にならぬよう気をつけている。来春は再デビューを果たしたいと思う。

X月X日

今や最大の趣味、「歌」については今年入会したフォークソング教室を心底楽しんでいる。最近、その懇親会があった。壮健美茶目の女性生徒(複数)の主導によるカラオケである。プロ歌手たる井上ともやす先生はさすがのレパートリーと声量。オリジナル歌手にそっくりに歌ったりして店内の他の客をも大喜びさせる。

私はといえば、(アルコールも飲まず)場に乗ってビート的な歌を、たまに抒情歌的な歌を歌う。エチケットとして2曲続けては歌わないようにしているが、次掲の1曲目と2曲目は冗談で連続して歌わせて頂く。

♪青葉城恋歌

♪時には娼婦のように

♪うりずんの頃

♪ルイジアナママ

♪時代遅れ

♪また逢う日まで

♪君といつまでも(セリフ部分は「幸せだなあ、僕は君と寝るときが一番幸せなんだ」とやる)

古い歌ばかり?   いやいや、今年6月発売の「黄昏シネマ(あさみちゆき)」なんてのも歌うのである。

112X日

我が娘に子が生まれました。男の子です。初孫ですが、私こと、まだオジイサンと呼ばれるには若干の躊躇(抵抗?)がある。出来れば「お母さんのお父さん」と呼ばれたい。長すぎる? それなら龍馬伝に倣って大殿様にして貰おうかな。

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2010年11月 9日 (火)

散歩道異聞

前回の私ブログに対して「散歩コースさん」からコメントを頂いた。

触発されて「散歩コース」についてまた考えてみる。

前回は西へ1駅離れた地に存外素敵な池を見つけた話だったが、今回は東へ1駅離れた住宅街の中の散歩道(並木道)を紹介したい。

一帯はいわゆるバブル期に華々しくデビューした超高級住宅街であるが、現在はやや閑散として、その目で見るせいか少しさびしげである。

しかし、入口に守衛さんはいても、通行や散歩は可能で、住宅街を貫くその街路樹は、今紅葉が始まり、赤、だいだい、黄だいだい、黄色、黄緑、緑、青緑、緑青、青、青紫、紫、赤紫(12色環)を取り混ぜた美しい錦絵を見るがごとくである。004

少し前までは「見学お断り」の看板が立っていたはずなので、今でも歩き抜ける人は意外に少なく、ゆっくりと二人連れで散策できる絶好の穴場である。 

写真は1031日の状態。

もう少したったらまた来てみよう。歩道が落ち葉の川となる。

葉っぱ、踏み踏み、歩きたい。

本文では、バブルの運命的な崩壊とか、人生はあざなえる縄の如しとか、バブルをあざとく批判するのは止めておこう。並木道は多分その時以上に綺麗である。

まして、我々はバブル期に何も投資はしなかった(出来なかった)のだから(幸か不幸か。いや、だったかな)。 

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2010年10月25日 (月)

考える葦

最近、我が家から1駅だけ離れた発展中の住宅街に池と小山から成るちょっといい公園を見つけた。

池は公称2ヘクタール(ざっと言えば、200メートル×100メートル)と意外に大きく、そしてその半分ほどをも覆う葦原が風にそよぐ様は結構みごとである。008

この葦を見て、長男が生まれた時にその命名に苦労したことを思い出した。いろいろ考えた名前(案)の中に「考葦(たかよしと読ませる)」というのもあった。

「人間は考える葦である」というあの名言から引いたもので、すぐに没とはなったのだが・・・

思えば、我々は天からの恵みで2子を得た。

ピノキオは自己犠牲のあと妖精によって人間の子供になれた。

手塚治虫の名作「ぼくの孫悟空」では、悟空が三蔵法師の大願成就を手助けしたあと3本の毛を得て、観音様によって人間にして貰えたのであった。

人間という生命を得るとは素晴らしいことである。

そして、葦原を見つつ池の周りを歩きながらこう考えた。

「人間は考える葦である。 ということは・・・・あの葦も自ら考えれば人間になれるということである」  ?

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2010年10月11日 (月)

意外なる真実

若くして海外に雄飛した同窓生がいる。封建的な我々薩摩のオノコどもをさっさと置いていった勇猛かつオシトヤカなる薩摩おごじょである。

彼女は同窓生メール網の貴重なメンバーであり、その生来の笑い上戸から、時々かの地の教養(?)やアメリカンジョークに満ちた動画や記事を送って来てくれる。今回は、「世界における意外なる真実」であった。 

曰く

     アメリカ全土の海岸線の半分以上をアラスカのそれが占めるPhoto

     カナダは他の地域を合わせたよりも多くの湖がある

     オハイオ州には自然の湖はない。すべて人工のものである

     アマゾンの熱帯雨林は世界の酸素供給量の20%以上を占める

     シベリアには全世界の25%以上の森林がある

     シカゴにはワルシャワに次いで多くのポーランド人がいる

     ニューヨークにはローマ市より多いイタリア人がいる

     ニューヨークにはテルアビブ市より多いユダヤ人がいる

「へーー、知らんかったんとってん」と感心、得心した小生は、お礼とともに真摯なる感想コメントを返信申し上げた。

「記事を読ませて貰って、私こと完全に認識を改めました。

私も結構雑学好きなので、今まで、自分は知らないこと以外は全部知っていると思っていましたが、実は、知っていること以外は全部知らなかったのだと」

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2010年9月28日 (火)

普通のストレス、良いストレス、悪いストレス

日常生活の中で私がふと感じる小さなストレス(他の人には何てことない?)を23つ記す。

その1: 電車の2人懸けの椅子に座っていて、たまたま隣の席が空いている場合、次の駅でお客が乗り込んで来ると、私の心に小さなストレスが生じる。

私には身長相応の肩幅があるので、出来れば隣には細身の(若い)女性が座ってくれないかな・・・と強く念じてみるのだが、不思議なことに、たいていは太めのむくつけき男性がドカッと座り込んで来る。都合二度、ストレスを感じることになる。

(思うに、私という人間は生来の女嫌いである?が、それでも男性よりは女性の方が遥かに好きだからであろう。)

その2: 一般駐車場での話。私が、とあるスペースに停車した後、ドアを開けて外に出ようとする瞬間、隣のスペースに車が入り込もうとして来ることが実にしばしば起こる。駐車場は広くて、他に空いているところもずいぶん多いのにである。退出時にも同じようなことがまま起こる。「何でそうなるの」と思う。

(これも小さなストレスであるが・・・もしかして被害妄想の類かな?)

その3: 今年の夏は記録的な猛暑であった。私は抒情歌やフォークソングを楽しむなどのため月に数回、市の中心街の教室に電車で通うのだが、まず最寄りの駅まで歩く123分が本当に暑く、しんどかった。アーケードのない小さな商店街である。街路樹もない。南向きの1本道で日差したっぷりだから、駅に着くまでに汗びっしょりになってしまう。これはかなりのストレスだった。

欲を言えば、駅に向かう通勤、通学路を落葉樹の並木が覆っているという姿が理想的だが、そういう街も、日本のどこかにはあるのだろう。ご存知だったら教えてください。そこに引っ越すことを夢のひとつにしたい。

ところで、そのような並木道を鮮やかにイメージさせる歌に、松任谷由美の「卒業写真」がある。

「♪話しかけるように揺れる柳の下をかよった道さえ、今はもう電車から見るだけ」という少し悲しげな一節。見方を変えれば、「昔の恋は甘美なストレス」と言えるかもしれない(なお、この「昔の恋・・云々」は筆者の経験談ではなく、あくまで一般論である。念のため)。

Photo

蛇足:駐車場の情景

   「この駐車場は屋根が付いていません」の意?

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2010年9月13日 (月)

旅はいろいろ、いろは坂異聞

日光中禅寺湖の話が出たついでにムダ話をひとつ。何かの役に立つという話でもないが、私自身は「なるほど、そうするのか」と思った事案である。

前回の猛暑日とは別の機会のこと。強い雨の降る夕方、麓の日光市で少し時間をつぶしたあと、中禅寺湖に向かってヘアピンカーブが連続する第2いろは坂をマイカーでギクシャクと登っていた。中腹で突然旗を振った人が現れ、車を止められた。聞けばこの道路の関係者で、「この先でがけ崩れがあり、今は第2いろは坂の入り口で通行止めにしたばかりだ。あなた方は仕方ないので注意して通過してください」とのこと。

現場は、左が山、右が崖(谷)の盛り土部分で、その右側1車線分が大きくえぐられていた。左半分をおそるおそる通過する。日光市で過ごす時間によってはちょうどがけ崩れに巻き込まれた可能性もあったのかもしれないが、それより明日の山下りのことが気になった。Photo

そもそも、いろは坂はかつて第1しかなく、登り、下り片側1車線ずつの対面交通で、ヘアピンカーブでの大型バスとの行き違いなど、渋滞の巣というか、交通の難所であった。そのあと第2いろは坂が建設されて、第1が下り専用(2車線)、第2が登り専用(2車線)とされたものである。さっきの第2いろは坂のがけ崩れは早急に復旧するのは難しかろうから、明日は第1いろは坂を使った対面交通になっているかもしれない。そうなったら昔と同じ大渋滞となる(事故の危険もある)のは目に見えていた。

翌日は旅館での朝食後、早めに第2いろは坂の入り口に向かった。すでに車の列が出来ていた。

しかし、予想に反して、登り下りの対面交通ではなく、安全のためだろう、登り下り一方通行の切り替えをやっていた。30分間は下り専用、次の30分間は登り専用としているようだった。ただ、これでは、遅い車や、ひょっとして途中で抜ける(エンコする?)車があるかもしれない。出口で車の数を数えているのも間違いが起こらないとも限らない。間違いがあれば登りの車と下りの車の正面衝突である。

そこで護送船団方式をとっていた。道路関係者の車が2台出て、一般車両20台ほどの先頭と後尾を務め、集団で降りて行ったのである(前引き、後押し)。台数の間違い防止とちょっと急がせる効果を期待してのことだろうと思う。

やがて我々の番が来て、20台ほどで下り始めた。前の車につかず離れず、もともと第2いろは坂は急な下りでスピードが出やすく、一方が崖(谷)状態のヘアピンカーブも多いので緊張するものだけれど、今回はさらに少し緊張させられた。

降りきった所では、登りの順番待ちの車の大縦列が出来ていた。

珍しい体験であった。ただし、全国紙には載らなかったように思う。

袖擦りあうも多少の縁の下の力持ちに感謝。

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2010年8月30日 (月)

言うまいと 思えど 稀有の 暑さかな 

今年の夏は35℃を超える、いわゆる猛暑日も珍しくない状態である。これに関連して、そんなにも昔のことではないのだが、猛暑日などという言葉も(多分)まだなかった頃の話をしたい。

日光の中禅寺湖のほとりにい~いホテルがある。通常なら我らサラリーマンには少々敷居の高い所であるが、誕生日プラン(カップルいずれかの誕生日にあたる週は両名とも半額)という特別サービスを見つけて勇躍出かけたことがあった。ある年の真夏。Photo

麓の日光市はまだ蒸し暑かったが、いろは坂を登りきり、湖畔の森の中に立つそのホテルに着いたとき、涼しい風を感じた。予想以上だった。

さて、その日の夕方、ホテルのレストランで隣に座った家族連れと話をしたとき、少々驚いた。『今日の昼過ぎ、東京はついに35℃を超えた。あまりに暑いので家族でどこかに逃げようということになり、急遽このホテルに電話したらたまたま空いているということだったので車で飛んで来た』とのこと。「東京35℃」という話に心底へぇーと思った。まだまだ珍しかったのだ。

相前後して地球温暖化などが喧伝されるようになって行ったように思う。

そして、ここ10年、確かに暑くなっていると実感する。

もっとも、仮に東京で1メートル四方を1単位とした全点を採取すれば冷房の効いた部屋の温度も含まれて来るので平均温度は少し下がるのかもしれないが、それとて都会がエアコンの室外機などでヒートアイランド化しているということを証明するだけなのかもしれない。

あ~~、あづい~~

有楽町に(涼を求めて)鹿児島名物のカキ氷である「白熊」をわざわざ食べに行った日も、帰りは本当に暑かった!Photo_2  

追記:中禅寺湖のホテルにおいて聞いた東京35℃の話に関して実はもうひとつ驚いたことがある。

いくら暑いからといって、ひょいとその日にリゾートホテルへ家族連れで来られる(しかもベンツで)というのはやはり我々にとってはある種の驚きであった。

しかし、  暑さ寒さも ヒガンじゃいけない・・か

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2010年8月17日 (火)

懐かしのフォークソング

リタイア後、「心を入れ替えて家事全般をこなすから、その代わりに自分の好きなことをやらせてくれ」と嫁さんに頼み込んで始めた私の趣味・音楽・スポーツジムなどの知的悠遊(?)生活は、このところ少し絞り込みつつあるが、一方で新たに「フォークソングをもう一度」というカルチャーに入会した。この教室の先生は現役バリバリのフォーク歌手(プロだから敢えて公表してもいいかな)・井上ともやす先生である。

カルチャー一般の例に漏れず、メンバーは女性が主体で、女性8人、男性はなんと2人(しかも先生を含む! ・・・つまり、私一人)である。

そして、2時間、先生のフォークギターとボーカルに合わせて、ひたすら懐かしのフォークソングを歌う。そう、「懐かしの・・・」である。

♪あの素晴らしい愛をもう一度、イムジン河、ジョニーへの伝言、

昴、さよなら、空よ、空に星があるように、小さな日記、

雨が空から降れば、少年時代、案山子、時代、

見上げてごらん夜の星を、海岸通り、あの人の手紙・・・などなど

曲目を見れば女性メンバー8人の御年齢も自明でしょう。もっとも、若い人も2~3人はいらっしゃるのですよ。 !  4~5人、いや7~8人。  だから、森山直太郎のさくら・独唱などという比較的新しい歌も入ります。

なお、私だけの事情を言えば、現役中において仕事に忙殺されていた期間など断続的に音楽の空白がある(よく知らない歌、歌いにくい歌がある)のだけれど、そんな時にはYOU TUBE などで予習して行くのであります(えらい)。

ところで、上記のほとんどはユニゾンで歌われる。しかし、竹田の子守唄などハーモニーを試みるものもある。

男性だけのユニットなら足の長さから言ってもダーク・ダックス・フントというグループ名がピタリだが、もし混声合唱がうまくいったら新たにユニット名を考えなくてはならない。

そう・・・ママス・アンド・パンパースてえのはどうでしょうかね。Photo_2 Photo

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2010年8月 2日 (月)

爪楊枝を見て考え込む

レストラン(というか食堂)で食事が終わったあとに爪楊枝が欲しくなることがある。あの爪楊枝なるもの、小さい小さい商品で(飾り彫りまで施してあるけれど)本当に安価なんだろうなあ、それを作っている人たちも大変だなあと思うのだけれど、近頃はそれを11本包装してあるものさえ多く見られる。多分これは裸の爪楊枝だと自らの使用後にわざと楊枝入れにお入れになるヤカラがおられるから、まっとうなお客様に対して爪楊枝が未使用であることを証明するためのものだと思う。それにしても、楊枝入れにお戻しになるのは決してエコとは言えない。衛生面でいえば、冗談を通り越して少々悪質である。

でも実は、袋入りの爪楊枝を見ると、子供のころ、ちょっとした悪戯(決して悪質ではない)をしていたのを思い出す。

当時、チューインガムは現在のように粒状全盛ではなく、ほとんど全部が板状で、一枚一枚銀紙綺麗な紙に包まれていた。「ちょっとした悪戯」というのは、中身を食べたあと丁寧にふくらみをもたせて包装し直し、それを道端にそっと置いておく所業である。たいていは子供が、たまには大人がひっかかって拾ってくれる。空であることに気づいたときの彼らの顔を想像して悪ガキはニンマリとするのである。

いたずらとしては初級(?)のものだが、衛生面の問題はないと思える。

当時ひっかかった人、ごめんなさい。私だってひっかかったことがあるんですから。Gum016

はるか昔のなつかしくも申し訳ない思い出である。

追伸:先回の私ブログも昔の思い出話であった。昔のことを語るのは老化現象のひとつかもしれない。  老化と言えば・・・最近、早口言葉を言ってみて、若いときのようにはできないことに愕然とした。例の「なまむぎ、なまごめ、なまたまご」である。若いときはアナウンサーになれるとさえ思っていたのに。

でも、いいのだ。自分で作った早口言葉はよどみなく言えることがわかったから。

その昔、魚市場にて作ったやつである。

「はまぐり、はまごめ、はまたまご!」      (簡単すぎるのかな)

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2010年7月20日 (火)

雀のこと

このところ、何故か日本では雀の生息数が激減しているのだそうな。気候のせいか、人間の営みのせいか。

それにしても、雀とは天敵から身を守るために人間のすぐ傍に住みながらも、容易に人間には慣れ親しまないという偏屈者(しかし、今の私は密かに彼らに拍手)ではないだろうか。我がご幼少のみぎり、巣から落ちた雀に餌を与えようとしたのだが、彼(彼女)はそれを食むことを拒み、そのまま死んでしまった。子供心に悲しみと同時に不思議さを感じたものだ。

その対極にあるのが舌切雀の寓話であろう。

さて、ここで話は急に変わるが、もう20数年も前、マイホームを建てて間もないころのこと。裏手に回ったとき、ガサゴソ、ガサゴソという妙な音が聞こえてきた。何だろう、何処だろうといぶかったが、やがてそれは雨樋(縦樋)の中からだと分かった。おそらく家の周りで毎朝騒いでいる雀軍団の一羽が誤って樋の中に落ちて必死にもがいているのだ。

かわいそうに思って雨樋の繋ぎ目をはずしてやったらバタバタと飛び出して遥かかなたへ飛び去っていった。

その後、彼(彼女)からは全く音沙汰がなかった。私なりに小さいつづらにしようと思っていたのだが・・・

あれから20数年、177㎝、77㎏の私はまだ生きている。一方で雀の世界はいったい幾世代を経て来ているのだろうか。(同じ種の中では誤差が大きいけれど)いろいろな種全体で見ると体重の大きい種の方が寿命が長いのだそうな。あの飛び去った者を含む雀の命の儚さを思う。

雀の命という面ではもう1話題。雀(野鳥)はいったいどこで死ぬのかということ。

私がまだ30代のころ、鋪道を歩いているとき後ろ肩に何かが当たって地面に落ちたのを感じた。見たら、雀だった。彼は空を飛んでいる時か、電線に止まっている時に絶命したのだ。私はものすごく珍しい事件に遭遇したのかもしれない。それにしても、もし飛翔中のことであれば彼はなんと幸せであったことか・・・

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2010年7月 5日 (月)

アリス・イン・ワンダーランド

つれづれなるままに最近見た映画を列挙してみる。

インビクタス

オーケストラ

アリス・イン・ワンダーランド

カールじいさんの空飛ぶ家

RAILWAYS

Sex and the City

このうちアリス・イン・ワンダーランドについてちょっとコメントしたい。

話題の3D映画であった。入口で大きなサングラスのような3D用眼鏡を手渡される。

3D映画、3D眼鏡と言えば、かの筑波万博において各パビリオンが「立体映画」を競っていたのをなつかしく思い出す。当時は「飛び出す! こちらに飛んでくる! ぶつかりそう!」という迫力を強調していたように思う。アリス・イン・ワンダーランドでは例えば田園風景の中で蝶々が飛んでいる、浮かんでいる、浮き出して見えるというようなファンタジックな映像が売りのようである。それはそれで「ほお!」と思わせた。

しかし、映画が進むにつれ、何か違和感(イラ感)を覚え始めた。私はまだCGよりもアニメの方が好きであるということもあるのだが、延々と夕方のシーンかと思わせるほど何となく薄暗いのである。しかし、3D眼鏡を取ってみるとまごうことなく昼間のシーンなのだ。

ここで気がついた。私は常時眼鏡をかけている(残念ながら?遠近両用である)ので、3D眼鏡をその上から被せて見ることになる。すると瞳孔に入る光の量は確実に減り、全部が夕方のシーンになってしまうということのようである。老爺心ながら、かしこみかしこみ申さく。今後3D眼鏡には透過率の向上などよりいっそうの改善が必要でしょう。

もうひとつ、小声で奏上す。

我々の英語力ではやはり字幕が頼りになる。しかし、3D映画ではその字幕がかなり浮き上がって見えるので、そこに焦点を合わせると逆に映像のほうがピンボケになってしまうのだ。字幕はあそこまで浮き出なくてもいいのでは。

3Dの映像を純粋に楽しもうと思うなら、吹き替え版で観たほうがいいのかもしれない。

映画そのものは、幼い頃を思い出すのには十分だった。かつて初めてその絵本を見たときに「不思議国のアリス」ではなく「不思議国のアリス」であることに何とも言えない驚きがあった。言葉の美しさを感じたものである。なつかしさが込み上げた。今は昔。Photo

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2010年6月21日 (月)

心悸一転

同年代(同病?)の方々に参考となるかもしれないので、我が心房細動の後日譚をここに上梓いたしたく思います。

先日受けた心臓の超音波検査の結果を訊きに行った。

担当の先生が、まずシカツメラシイ顔でおっしゃる。「ご存知のように心臓は4つの部屋に分かれて機能している。あなたの場合、それらの間でちょっと逆流しやすい箇所が映像で見つかった。けれど、心配するほどではない」

そして、にこやかに(先生も同年代らしいのに)、「心房細動は老化現象のひとつでもあるし・・・」

う~ん、安心すべきなのか、ひがむべきか。老化という言葉は聞きたくなかったのだが・・・

先生が続けておっしゃる。「ただ、日常生活においては刺激物を避けたほうがベターでしょう。お酒は飲みますか? ・・・飲まない。 では、コーヒーは? ・・・145? それはちょっと多いな。少し減らしましょう

実はその後(あの日以来)、心房細動は起きていない。とりあえず大丈夫のようである❤  今後は、心静かに、絶世の美女とは遭遇しないように、またコーヒーも134で過ごしていこうと思う。Heart

そして、人生は悪いことばかりではない。直近、家族の一員にいいことが舞い降りて来たのである。

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2010年6月 8日 (火)

心臓に悪い初めての体験

背中周辺の慢性的な痛みが続いている。これは、もしかしたら首の変形から来るものではなく内臓の問題かもしれないと素人的に考え始めたある日の夕方、7時頃だったが、そろそろアッシー君として嫁さんを駅に迎えに行こうかと思いつつソファーで一人リラックスしていたその最中に、突然、心臓が激しく脈打ち始めた。ドキドキどころではない、トトトトトトトトト・・・である。なかなか収まらない。絨毯の上に横になってみるも変わらない。高血圧の治療中なので家に血圧計はあるのだが、立ち上がって2階まで取りに行く勇気は出ない。試しに手首の脈拍を測ってみると、1分間で240回くらいは打っている。普段の4倍だ。何だろう。初めて経験する事態である。心臓マヒにでもなるのかなと思った。

しかし、意外に冷静だった。そして「もし心筋梗塞に繋がるのなら、それはそれで幸せかも」とさえ思った。理想は「ピンピンコロリ」だから。

その心臓の早鐘状態は20分くらい続いていた。そこへ帰って来た嫁さんに、いずこかの病院にどうすべきなのか相談してみてと頼んだ。しかし、結局、7時半では何処の病院も開いていないはずだし、大いに気がひけるけれども救急車を依頼しようということになった。ただし、家の近くに来たらサイレンを鳴らさないでとお願いすることとして。(救急車も初めての経験なので、何と言うか恥ずかしさが先に立つのもしょうがないことである)

しかし、不思議なことにそれから徐々に激しい動悸は収まり始めた。救急車が来た時には1分間に120回くらいまでになっていた。親切な救急隊員といろいろ話をした。この時に測った血圧は150110くらいだったけれど、明日近所の内科医で心電図などをとることとして救急車には恐縮ながら帰っていただいた。

長いような、短いような、とにかく奇妙な体験だった。Photo

翌日、内科医の診断は「突発性の心房細動だろう。不整脈も見られる」だった。

しんぼうさいどう? 辛抱妻道? 

「このごろ時々耳にする言葉ですが?」

「例の長嶋監督の病気だよ。長時間続くと血液がどろどろになり、脳梗塞を引き起こす可能性が高くなる。一度、大きな病院で心臓の超音波検査を受けておいた方がいい」

そうかー、心筋梗塞ではなく、脳梗塞かー。一命をとりとめても後遺症が大変。あまり良くない事態だなあと思った(実は、我が家系の遺伝病である)。

その2週間後、循環器科で心臓の超音波検査を受けた。結果が出るのは1週間後とのこと。

でも、雰囲気としては、あまり深刻ではなさそうだ。循環器科のちょっと面白そうな先生は、次回、あの有名なセリフを吐くかもしれない。「大丈夫。君の心臓は一生もつ」

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2010年5月24日 (月)

何かいいことないか

1週間に1度。それも5番アイアンまで」と自制していたゴルフ練習だが、先日3年振りにドライバーを振った。意外に調子が良かった。間をおかず練習したいと思った。私の欠点のひとつ、こらえ性の無さである。

それから2,3日後、少し寝違えたかなという違和感があったのだが、「今日はドライバーを振りたい! それによって筋肉がほぐれることもあり得るだろうし」と無理矢理考えて、練習場へ出掛けた(若い時にはそういうこともしばしばだった)。ドライバーはその日も調子よかった。

しかしである。その夜、首というか、肩というか、背中というか、茫洋とした鈍痛に覆われた。日がたてば直るだろうと思っていたが直らず、やがて真っ直ぐ仰向けに眠ることが出来なくなって、とうとう少し前まで腰痛、肩痛(四十肩?)でお世話になった整形外科をまたまた受診するハメになった。

先生の診断では、「首の骨に少し異常があるが、やはり寝違えでしょう。それより、約10日間も我慢していたため筋肉がすっかり固まってしまっている」とのこと。以後3週間、理学療法士による強烈なマッサージを受けている。

でも、なかなか良くならない。やはりまともに仰向けには寝られず、右半身を下にして少し丸まって寝ている。もちろんゴルフ練習は再び完全中断。「歳だなあ」とつくづく思う。

そして、この寝姿は困った事態を招く。

床ずれ? いや、右の側髪に強烈な寝癖がついてしまい、毎朝修正に四苦八苦しているのである(そんなこたア、どうでもいいか)。

話は少し変わるが、私は日常フッと「何かいいことないか」と言ってしまうことがある。この言葉の源は、ご存知の方もおられよう、昔のアメリカ映画のタイトル「何かいいことないか、子猫ちゃん」である。しかし、実はこの「何かいいことないか」という言葉は、不遜極まりない、天にツバするような言葉なのかもしれない。「何もないこと」がいいことなのだ。この言葉をつい発してしまうと、いつも何か良くないことが起こっているような気もする。今回もその類である。

ところで、「何かいいことないか、子猫ちゃん」の原題は、「What’s New Pussycat?」である。友人の一人は、私のこのつぶやき(の後半部分)を聞くと驚いて、「しーっ」と言う。Whats_new

でも、この映画音楽はあのトムジョーンズがあの美声で「What’s New Pussycat?」と堂々と歌っているのである。いいんじゃない? やっぱり、いけないのかなあ。誰か教えてください。

なお、近頃は、「何かいいことないか」ではなく、「何かいいこと・・・が、ありそうじゃん」と言うことにしている。

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2010年5月10日 (月)

小旅行(沖の細道)

ここ3年ばかり、しばしばギックリ腰、キックリ腰、電気うなぎ腰に見舞われて来たため、ゴルフのラウンドは自粛、敬遠、我慢中である。リタイア後の楽しみだった1年に1度の海外旅行も同様。 ただ、腰に負担が掛かることの少ない「いい夫婦」の小旅行(バス、電車利用)にはときたま出かけており、先日も息子夫婦を誘って4人で修善寺温泉に1泊した。かつて数回、娘と息子に体験させていた老舗旅館の良さを、新しく家族となったお嫁さんにも味あわせたかったから。そして、いい旅となりました・・・野天風呂、能舞台、軍鶏鍋、一碧湖、紅白梅図屏風・・・

その返礼(?)として息子夫婦が熱海のリゾートホテルを予約し、誘ってくれた。いわゆる熱海銀座界隈ではなく、熱海沖に浮かぶ初島(はつしま)のホテルで、永らく遠くに見るたび気になっていた所でもある。再びの4人旅となる。

熱海港から約30分の船旅で遠く離れた所に来たという不思議な感覚が味わえる。ホテルの特別高い吹き抜けのロビーは開放感と南国ムードがたっぷり。島の中の散策も海べりの遊歩道、桜公園と、なかなか楽しめる。公園にはキングプロテアという初めて見るエキゾチックな大花が咲いていていよいよ南国らしい気分が味わえた(右写真)。Photo

ついでに言えば、島というものは、外から見るより(中に入ってみると)意外に大きい、広いと感じられるように思う。

「日常からの脱却」という面で、今回の初島もいい旅となりました。

そこで一句。

「初島や ああ初島や 初島や」

今回の小文はこの一句を奏上するためにまとめたのだが、それ以上に、息子夫婦に(娘夫婦にも)感謝を表したかった。私の人生(特に会社人生)は石原裕次郎最後の歌のように「わが人生に悔いなし」とはいかなかったが、子供たちには恵まれたとつくづく思うのである。

あっ! 伴侶にも恵まれましたですよ!

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2010年4月25日 (日)

老いについて(ローマは1日にしてならず)

先の私ブログに対して「こだわりの呼称」さんからコメントをいただきました。

(下記、原文のまま)

『オジサンとオバサンと書き、老人と老女、と書かないところにこだわり?を感じました。なぜ「老」の語感はワルイのでしょう? 「老人と海」を映画でみたがよかったなあ。若者や中年はタヨリナイ。アタマ柔軟にしてがんこな(背骨のアル)老人、出でよ。時代は変わった。劇唱&笑いころげの5人様を私は「アクティブシニア」と呼びたい。皆さんの年齢も存じ上げず、失礼なことを書きました。「筆者追記」をお願いします』

さて、謹んで返信申し上げます。

実は我ら5人組、還暦を若干過ぎてはいても、ハナから自分達のことを老男(老人)、老女とは思っていないのです。オジサン、オバサンという言葉も自分達を揶揄するために使っているほどで、いまだ現役の者もおりますし、そうでない「リタイア人」も日本経済のために相応に年金を使っているのです。さらに、私こと(ギックリ腰の恐怖さえなければ)飛距離はいわゆる青壮年には負けないと密かに(?)思っているくらいですから。

それにしても、たしかに日本では「老」のイメージはよくない。中国では違うようですが。

私が現役のころ、同僚に老松という大柄の者がおりました。彼が、たまたま小松という小柄な男と中国に出張した時、相手先の事務所に二人で入ったとたん、爆笑が起こったとのこと。わけがわからないでいると、現地の営業マンがそっと教えてくれた。中国では「老」に「大」の意味が含まれるので、老松・小松と言うと、大小コンビ、凸凹コンビのイメージとなり、事前のFAXで少し話題になっていたところに、事務所に入ってきた二人が凸凹そのものだったので爆笑が起こったらしいのです。

でも、現在の日本では「老」については「大」ではなく、「老残」「老衰」のイメージが強い。江戸時代初期は尊敬の意味があった「老中」「大老」さえ、日本史の中でイメージが悪くなってしまっている感があります。

しかし、我々は悲観しない。美しく時を重ねたい。 young@heartのごとく80歳を過ぎても、ロックやビートルズを歌っていたい。まして老婆(女性の方が長生きする)と呼ばれる遠い時までにはいろいろな人生経験、知識を積みたいと思う。そういう老人は尊敬されるべきである。若者は簡単にはその域に達しない。老婆は1日にしてならず、である。

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